エッセイスト菊池木乃実のブログです。環境活動家の夫、ポール・コールマンと共に南米チリのパタゴニア地方に在住。ホリスティックで持続可能なライフスタイル実践中


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牛飼いの少年

10月5日(木)晴れ

コン、コン、コン!!誰かが窓を叩く音で目が覚めた。
「誰か、来た!」慌てて飛び起き、パジャマのまま1階へ降りていく。音のする窓のほうへ近づいていくと、なんと、大きな鳥が嘴で窓を叩いていた。どうやら、反対側の壁にある窓を通って、向こう側へ飛んでいきたかったらしく、窓のガラスを突付いている。鮮やかなマンゴー色の身体をした美しい鳥だった。
「マンゴー色の鳥が窓を叩いてるよ!カメラを持ってきて!!」ポールに向かって叫ぶとすぐに彼が降りてきた。
「うわあ、きれいだ」カメラを構える。すると、鳥はあっという間に、飛び立っていってしまった。
「ふう」ポールがため息をつく。「きれいだったね」「うん」
写真は取れなかったけれども、マンゴー色をした鳥は私たちの記憶にしっかりと残った。

すると、今度は朝食のあと、質素な身なりをした老人が木戸を開けてやってきて、大きなビニール袋を持って、庭の奥に広がる花畑のほうへ消えていった。
「誰か来たよ」「ええ?誰だろう?」
外へ出てみると、日に焼けてしわだらけの老人がニコニコしながらやってきた。
「ブエノス・ディアス」と挨拶をし、握手をすると、「グロリアに頼まれて、庭の掃除をしているんだよ」と老人は言った。そういえば、1年ほど空き家にしていて庭が荒れているので、知り合いの人に掃除を頼んでいるとグロリアさんが言っていた。
「私はポール、彼女は妻の木乃実です。お名前は?」「アレハンドロだよ」「じゃあ、よろしくお願いします」そう言って私たちは家に戻り、老人はしばらく、庭の落ち葉や枯れ枝などを拾うと帰っていった。けれども、そのあと庭へ出てみると、花壇にはまだ枯れ枝が積んであり、きれいになったとは言いがたかった。
「また、来るのかな?」「そうでしょ。グロリアさん、お金払ったって、言ってたもん」
(けれども、アレハンドロはそれきり、二度とやって来なかった。グロリアさんは、「今度は違う人を雇う」と言っていたけれど、結局、誰もやってこず、私たちが庭をきれいにしたのだった)

アレハンドロが帰ったあと、また、お客さんがやって来た。40代ぐらいの男性と、赤ちゃんを抱いた奥さん、おじいさんの4人が、家族総出でプロパンガスを運んできてくれたのだ。彼らは、挨拶をすると、ニコニコしながら帰っていった。

しばらくすると、今度は犬が吠える声がした。二階へ上がってテラスから見てみると、敷地の中にある花畑に大きな牛が4頭と小さな犬が一匹、牛飼いの少年が一人。牛たちは、巨大な身体で花畑を踏み荒らし、次々に花を食べているではないか!
「前は、村の人が敷地の中に牛やヤギを連れてきて、庭を荒らしていくので困っていたんだけど、村役場の人に話して、私有地の中に入るのは法律違反だと村の人、全員に言ってもらったから大丈夫」
たしかに、グロリアさんはそう言っていたけれども、どうやら彼女が1年間、家を空けているうちに、村の人たちは「そうは言っても、誰もいないからいいんじゃないの?」と牛を連れてくることにしたらしい。
村の人にとっては、私たちが「天国だ!」と喜んで愛でている花畑も、たぶん「放牧するのにちょうどいい場所」なんだろうし、牛にとってはご馳走であることは間違いない。でも、私たちはこの家の前と後ろにある花畑を何よりも大切に思っていたし、何よりもオーナーのグロリアさんが「牛やヤギは敷地の中に入れないで」と言っていたのだから、牛に庭の草花をご馳走するわけにはいかないのだった。
「ここは私有地だから、だめだよ」
ポールは外へ出て、牛飼いの少年にそう言った。牛飼いの少年は、がっかりした様子だったけれど、牛を追って外へ出て行った。そのあと、よく調べてみると、庭の入り口にはりめぐらされていた針金がペンチで切られていることがわかった。この入り口は、玄関から50メートルぐらい先にあり、木々に遮られていて見えない。グロリアさんが留守の間に、誰かが針金を切って、牛やヤギを放牧していたらしく、花畑の3分の1は食べられて、30-40センチくらいの高さの緑豊かな草むらはバリカンで刈られたようになり、周囲の茂みは牛たちになぎ倒されて、枝が大分、折れていた。
「彼らはずっと放牧をして生活を支えてきたから習慣的にそれを続けているだけなんだけど、こうしてみると、長い時間をかけて育ってきた花畑や緑の茂みも、たった4頭の牛が歩いて草を食べるだけで、あっという間に破壊されてしまうんだよね」
ポールはバリカンで刈られたようになってしまった花畑を見て、悲しそうに言った。何百年も前から人間がしてきた家畜の放牧が自然を破壊する原因のひとつになっている、ということは、知識としては知っていたけれども、こうして目の当たりにするとその影響がよくわかった。

前に、私たちのウェアやバックパック、靴などを提供してくれている「THE NORTH FACE」の三浦さんが、「牛丼を一杯作るのに、水が1トン必要だということを知ってから、大好きだった牛肉を食べるのをやめ、今では他の肉も食べないし、乳製品も取らなくなった」と言っていたのを思い出した。牛肉は、一番、効率の悪い食べ物で、牛に食べさせる飼料や水などを計算すると、同じエネルギーで何倍もの穀物が取れるのだそうだ。

ポールも、歩いて旅をしている間は、いろんな方が私たちのために料理を作ってくれたり、ご馳走してくださったりするので、その方たちのご好意に感謝して何でも食べるけれども、自分からは牛肉は食べない。私は、もともとあまりたくさん肉を食べるほうではないのだけれど、以前は、週に一度は焼き肉を食べていたし、ステーキもハンバーグも大好きだった。でも、彼と一緒に歩くようになって、いつの間にか、牛肉は食べなくなってしまった。今回は、自分の庭がどんどん牛に食べられてしまうという状況を経験して、ますます、牛肉を食べるのはやめようと決心し、私も含めて、地球のためには、もっと、もっと、牛肉を食べる人が減ったほうが、バランスがいいのだろうな、と思うのだった。
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# by lifewithmc | 2007-02-24 05:36 | メキシコ・山の暮らし
10月4日(木)曇り
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風の音で目が覚めた。ベッドに寝そべったまま、窓の外を見ると、木々が大きく揺れている。空は曇っていた。

昨日、グロリアさんがオアハカに戻ったあと、私たちは早速、台所の掃除に取りかかった。何しろポールはきれい好き。特に、台所が汚いのは我慢できないのである。まず、食器棚をきれいにし、皿やフォークやナイフ、カップなどはすべて消毒した。1年間、誰も住んでいなかったので、あらゆるところにネズミの糞が落ちていた。ネズミの糞はすべて掃き、ガス台もテーブルも椅子もきれいに磨き、最後に夫が床を水洗いした。そのあと、使い心地がいいように、二つ並んでいた棚を、一つは、食器用として冷蔵庫の隣に、もう一つは食料を収納するためにドアの近くにそれぞれ移動し、買い物してきたものを冷蔵庫と棚とに分けて、収納した。その後、「暖炉の前に座って、ゆっくり火を眺められるようにしよう!」とポールが言い、4人がけのソファと1人がけのソファを一つ、暖炉の前に移動し、ダイニングセットは奥へと移した。

掃除が終わると、一番近い店まで歩いて行った。まだ、日差しが強く、少し歩くと汗ばんだ。歩いて20分とグロリアさんは言ったけれど、周りの景色を見ながら、のんびり歩いて行ったので30分かかった。何台もトラックが通り過ぎ、ロバを連れたおじいさんと子供たちと何かを頭に載せて運んでいるおばあさんたちとすれ違った。誰もが私たちを見つけると、手を上げ、笑顔で「ブエノスタルデス!」と言ってくれ、「ブエノスタルデス!」と返事を返すと、とても温かい気持ちになった。「笑顔がいいよね、メキシコの人は。ベリー、ベリー、ナイスピープル!」とポールが言う。たしかに、みんな初めて会う人なのに、ずっと昔から知っている人に会ったときのように、ものすごく嬉しそうに、懐かしそうに笑うのだった。

「人が少ないから、人に会うのが嬉しいのかな」ふと、そう思ってポールに言った。
「ここだと、すれ違う人は、5人か6人だから、みんな、すれ違う人、全部に挨拶するでしょう?でも、東京とかロンドンだと人が多すぎて、会う人みんなに挨拶していたら頭がおかしい人だと思われちゃうよね」
「クロコダイル・ダンディーみたいに?」「そうそう。あの映画の主人公、オーストラリアからニューヨークに来たとき、すれ違う人、みんなに、『グッダイマイト!』って挨拶して、いやがられてたね」
「でも、あっという間に友達を作ってたよ」
「うん。でも、人が多すぎると、人は人じゃなくなって、物みたいに見えてきちゃうんだよ。東京でOLをしていたときは、毎朝、ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗って、人ごみを掻き分けて、遅刻しないように会社に行くことが何よりも大事で、誰かの足を踏んでも、うっかり突き飛ばしちゃっても、なんとも思わなくなってたもん」
「不健全だよね」
「そうだね」

本当に、ほんの2年前までは新宿の高層ビルで仕事をしていて、毎朝、遅刻しないで会社に行くことが人生の最優先事項だったなんて、とても信じられない。特に、今年の1月から3月まで、中国・韓国を歩いてからは、都会の人ごみが苦手になったどころか、車や電車やバスに数時間乗っただけで、気分が悪くなるようになった。もともと私は、畑や田んぼで遊び、川で泳ぐ、田舎の子供だった。それが、十代の頃に東京に憧れるようになり、大学へ行くために故郷を出てからはほとんど田舎に帰らなかった。田舎のあの広々とした田んぼの風景や自然の溢れる場所で育ったことを、かけがえのない「宝物」だった、と思うようになったのは、ポールと出会って、自然の中を歩き、自然の中で眠り、自然の声を聞くようになってからなのだから、故郷を出てから20年間近くも自然から遠く離れて、つながりを失っていたことになるのだった。

「東京にいるときは、精神的に不安定だったなあ」
「だろうね。自然からエネルギーをもらうことができないんだから、生きるエネルギーも低くなるよね」
「そうだね」私は言った。「そういえば、中国や韓国を歩いている時ね、体力的にきつかったり、精神的にきつかったりしたとき、どうして歩き続けられたかっていうと、やっぱり自然の力だったよ。ふと見上げると、雄大な山が広がっていたり、思いがけなく近くに鳥が飛んでいたりして、『ああ、美しいなあ』と思った瞬間に力が満ちてきて、また歩き続けることができたの」
「そうか、よかった。君もそれを経験したんだね。自然の美しさが僕らを生かしてくれているんだよ。地球や宇宙の美しさが僕らを生かしてくれているんだ」

気がつくと、私たちは店の前まで歩いて来ていた。店でビールとスプライトとクラッカーを買い、店主のおじさんと奥さんに、「グロリアの家に半年、住むことになったんですよ」とポールが言うと、「それはよかった。いいところでしょ」と奥さんが言い、「ブエナ・ビスタ!(素晴らしい景色です)」と私が言って、みんなで笑った。汗ばみながら、元来た道を30分かけて家に戻った。家の手前で小川を渡ると、まるで魔法のようにあちこちから蝶が舞い上がり、私たちの周りをダンスしながら飛んでいった。

「この小川が、人間界と自然界の境界線みたいだね。この川を渡るときに、身体を清めて、自然界に入る、というわけ」とポールが言い、「じゃあ、こっちは地上の天国だね!」と私が言った。

山の家での2日目は、掃除から始まった。ポールは、玄関前のポーチ。あちこちにちらばった落ち葉を掃き、蜘蛛の巣を取り払い、門のすぐ外に流れている小川から水を汲んできてブラシでゴシゴシと洗った。私は二階の60畳はありそうな、巨大な寝室。ベッドの両側にある本棚を雑巾がけし、一冊ずつ本を取り出して、蜘蛛の巣やネズミの糞をふいた。グロリアさんの本棚には、ディーパック・チョプラ、ダライ・ラマ、ティク・ナット・ハン、ドン・ミゲルなどの本や、「あるヨギの一生」、ヨガの教科書など、私が一度読んだことのある本や読んでみたいと思っていた本がたくさんあった。

「どう?はかどってる?」ポールが下から上がってきた。
「うん。隅から隅まで雑巾がけしてるよ」
「よし!じゃあ、今度はテーブルを下に降ろすのを手伝って」 
ポールのプランは、キッチンで食事ができるように、2階に3つあるテーブルの1つを1階のキッチンに降ろそうというものだった。テーブルは、二人で持ち上げてもかなり重かった。一歩ずつ、慎重に階段を下り、テーブルをキッチンに移した。テーブルは見事に壁際にぴたりと収まった。家具を移動するにつれて、少しずつ、自分たちの家という感じになってきた。早速、移動したばかりのテーブルに座り、ハイビスカスティー、クラッカー、グァバでランチを済ませた。グァバは、水道で洗っただけで、皮もむかずに丸かじりした。果肉は、しっかりとした洋梨のような感じで、口の中に広がるトロピカルな甘い香りと味は、たとえようもなく美味しかった。

ほんの少し休憩して、ポールは引き続き、バスルームの掃除に取り掛かった。バスルームは家の外にある。玄関を出るとポーチがあり、鉄格子で囲まれているのだけれど、ポーチの右側に鉄のドアがあり、その向こうがバスルームになっていた。バスルームには、大きなバスタブ、シャワー、洗面台があり、その奥は、50センチぐらい、一段高くなっていて、そこにトイレの便座とフタが設置されていた。フタを開けると、下はそのまま地面になっている。下水が通っていないので、用を足した跡は大鋸屑や暖炉から出た木灰をまいて、自然分解するシステムなのだ。トイレットペーパーは、くずかごに入れて、後でまとめて燃やす。小さいほうは、ひろーいお庭で!というのが、ここでの暮らしなのだった。

「うーん」最初にトイレのフタを開けたときには、さすがに困った。てっきり、水洗トイレなんだろうと思い込んでいたのだ。30年前、子供の頃は、ボットントイレだったとはいえ、はたまた、中国を歩いたときには、地面に穴を掘っただけのトイレで用を足したとはいえ、半年もここに住むことを考えると、気が滅入った。ところが、驚いたことに、このトイレ、まったく匂いがしないのだった。大鋸屑や木灰が匂いを吸収するということと、土地が乾燥しているということと(半年は雨期、半年は乾期)が、大きな理由なのだと思う。

ともかく、この自然トイレの仕組みは目からうろこが落ちるほど衝撃的なのだった。自分が出したものが、直接、自然に戻って行くのだと思うと、当然、自分の身体に入れるもの(食べるもの、飲むもの)についても考えるようになった。出すものをきれいにするためには、入れるものに気をつけるということ。「野菜、果物、穀物などを食べて、きれいなものをなるべく排泄するように心がけよう!」と誓うのだった。OL時代は、週に一度のカルビ焼き肉御膳ランチが何よりも楽しみだったのだから、これまた、大きな変化なのだった。

さて、では、水はどこから来るのかというと、これは、小川から電動式ポンプでくみ上げて屋根の上に設置されたタンクに自動的にたまるシステムになっていた。小川の上流には大きな工場や大集落、農薬を散布している農場などもないので、川の水は比較的きれい。でも、そのまま飲むわけにはいかないので、必ず、3分以上煮沸してから飲む。お湯は電気湯沸かし器に常時たまっている。でも、大人2人が身体を伸ばしても十分なくらい大きなバスタブにお湯をためるには、湯沸かし器のお湯だけでは足りないので、お風呂に入るときには、晴れた日の夕方、ソーラーの湯沸かし器にたまったお湯と、電気湯沸かし器のお湯を両方使うことになる。メキシコには伝統的にバスタブをおいている家は少ない。4つ星のホテルでもシャワーがほとんど。村ではお湯のシャワーがない家も多い。それを考えると、大きなバスタブにたっぷりお湯をためてお風呂に入れることは、とてつもなく贅沢なことなのだった。

お風呂と台所の排水は、パイプを通って地下にしみこむようになっているようだった。川にそのまま流れていくのではないと知ってほっとしたけれども、地下にしみこむのだって、同じこと。これまた自然に還ることを考えると、排水にも気を遣う。幸い、以前からシャンプー、コンディショナー、石鹸などは100%自然に換えるものを使っているので大丈夫。台所の排水も、そもそも食べ物は残さないので食べ残しは流さないし、油は、オリーブオイルしか使わないし、揚げ物はしない。なので、お湯で洗えば、きれいに落ちる。

ゴミは週に一度。日曜日の朝8時までに村にあるお店まで持っていく。といっても、歩いて30分もかかるので、がぜん、ゴミも減らすことにする。まず、紙ゴミはまとめて燃やす。コーヒー、ハーブティー、紅茶、野菜くずはコンポスト。牛乳パックやプラスチック、燃えないゴミは、ゴミ袋にためておいてまとめてお店へ持っていく。ビン、缶はリサイクル。これもお店へ持っていく。紙ごみ、野菜くずなどを自分たちで処分すると、捨てるゴミはがぜん少なくなる。

買い物をするときにも、スーパーなどではビニール袋をもらわないように、買い物袋を持っていく。野菜を買うときは、青空市場でむきだしのままの泥つき野菜を買うので、サランラップやポリエチレンのトレーなどの包装材はついてこない。スーパーで野菜を買うとしても、むきだしのまま、キロ単位で売っているので、日本のようにポリエチレンのトレーのゴミがたくさん出ることがないので、この点はとてもいいところ。

(買い物するときに、「ゴミが出るような包装がしてあるものを買わない」「個別包装してあるものは、買わない」ということを気をつけるだけで、ゴミは減る。12月末現在までの3ヶ月間に私たちが出したゴミは、プラスチック、燃えないゴミ、瓶、缶、合わせて、20リットル入りのゴミ袋、5つだった)

ガスはプロパン。村から運んできてくれる。タンクの大きさは日本のものと同じ。私たちの場合は、あまり、長時間、煮込んだり、オーブンを使ったりしないので、1タンク、1ヶ月以上もつはず。日本のように、定期的にガスの残量をチェックして、タンクを持ってきてくれるようなサービスはないので、村の人は、空のタンクを車に載せてガス屋さんへ持って行き、満タンのタンクを購入しているようだ。私たちは車を持っていないので、なくなったら、グロリアさんに連絡し、グロリアさんが村にいる友達に連絡し、友達がガス屋さんへ行って、新しいタンクを買ってきてくれるという仕組み。ガスの値段は、1タンク、2400円。メキシコの物価からすると、かなり高価。村の人たちは、料理に蒔を使っている家もまだまだ、多い。

それにしても、東京に住んでいるときには、水がどこから来て、どこへ行くとか、ゴミを減らすとか、そんなこと考えたこともなかった。水も電気もガスも、毎月銀行からお金が引き落とされて、自動的にどこからかやってくる。排水だって、下水料を払えば、誰かがきれいにしてくれる。ゴミは、どんなにたくさん出したって、お金を出してゴミ袋を買えば、いくらでも市が処分してくれる。トイレは水洗。自分が出すものが、なるべくきれいなものになるように、食べ物に気をつけよう、なんて、これっぽっちも考えたことがなかった。考えることといえば、台所洗剤や手が荒れないもの。洗濯機用の洗剤は、漂白効果が高いもの。シャンプー、リンスは髪に潤いを与えて、つやが出るもの・・・・といった具合に、自分に都合のいいものばかりだった。

ところが、ポールが木を植えながら沖縄本島を歩いて一周するというので(もちろん、そのときは、後に彼と結婚することになるとは思いもせず)、私もそれに参加し、ビーチで野宿をしたときに、それまでの考えが、すっかり変わってしまったのだった。

ある日の朝、沖縄の北部のビーチで野宿をしたときに、山から流れてくる水で歯を磨いた。今までずっとしてきたように、歯磨き粉を使って歯を磨き、水で口をゆすぎ、「ぺっ」と歯磨き粉まじりの水を小川に向かって吐いたのだが、そのときに、歯磨き粉の泡が、透き通った小川の水に浮かんで、どこまでも水と交わらず、溶けずに流れていくのを見て、突然、ものすごいショックを受けたのだった。「あ、今、私が吐いた歯磨き粉は、誰かがきれいにしてくれるわけじゃなく、小川の自然の浄化に任せるしかないんだ。もしかしたら、ここより下流の人がこの水を飲むかもしれないんだ」それは、今まで感じたこともない衝撃だった。自分が出したものが、どんなに回りに影響を与えるのかということを、肌で感じたのだった。

東京に住んでいるときには、自分の家の排水溝と海との間には、ものすごい距離があって、自分の家の排水が海に流れるという実感がまるでなかった。自分が出したゴミがどう処理されているのか、なんて、考えたこともなかったし、心のどこかで、「誰かが(お役所?)きれいにしてくれる」という甘えがあった。ところが、ビーチで野宿をしながら、旅をしていると、自分の出す排水はすぐ海に流れる。自分と海が、じかにつながっているということが、ショックだった。それがきっかけで、シャンプーやリンス、石鹸、洗剤などを自然分解しやすいものに全部変えた。台所の排水溝に平気で流していた味噌汁の残り、カレーの残りなどは、排水溝に流さないようになった。都会に住んでいる間は、お金を払っていれば、誰かがきれいにしてくれるかもしれないけれども、自分が生きていることで自然にかけている負担を少しでも減らしたいという気持ちが、生まれて初めて、私の中に生まれてきたのだった。

それまでは、自分が毎日、排出するものが、どれだけ自然に負担をかけているかなんて考えたことは、まったくなかった。「自然」と「自分が排出するもの」との距離が遠すぎるし、毎日の生活が忙しすぎて、考えるチャンスもない。ところが、自然の中で野宿をすると、あっという間にそのことがわかる。考えなくても、自然に気づく。自分と自然との間に、家や、壁や、トイレや、洗濯機や、排水溝や、浄水場が、一切ない。自分の眠っているマットのすぐ下は地面だし、すぐ上は夜空。用を足したら地面に沁み込んで行くし、おおきいほうは、そのままそこに残っていく。まるで、自然の中にお邪魔して、森の中の一角をちょっと拝借したような、申し訳ないような気持ちになって、「汚してごめんなさい」という気持ちになり、自分の何かを排出するたびに、「どうか、あまり自然を汚しませんように」と祈るような気持ちになる。それは、生まれてこのかた、恥ずかしいことに、自然環境のことなど、これっぽっちも考えたことがなく、「自分にとって何がメリットか」ということしか考えなかった私にとっては、ものすごく新しい生き方なのだった。

さて、私は2階の寝室にある本を全部ふき終わり、タンスの引き出しもすべてきれいにふいた。どうやらネズミは2階に住んでいたらしく、本の後ろにトウモロコシや豆などが散らばっており、なんとタンスの一番下の引き出しには、こぶしの大きさぐらいに丸められた脱脂綿があり、真ん中がすっぽりとネズミの身体の大きさぐらいに窪んでいて、どうやらそれが彼のベッドのようなのだった。「ごめんね。悪いけど、今日からこの家は私たちの家だから、あなたはどこかへ引っ越してちょうだいね」と心の中で言いながら、ネズミのベッドもトウモロコシも豆も全部、撤去した。「ネズミにしてみれば、寝耳に水というところだろうけど、しょうがないよね。ネズミは家賃を払ってないもの」ネズミのベッドらしきものを発見したと報告すると、ポールは言った。たしかに。

一通り、掃除が終わると、すでに夕暮れだった。インゲン、ニンジン、ジャガイモ、タマネギなどで簡単な野菜スープを作り、キャベツとキュウリを塩もみにして、ライム、オリーブオイル、コリアンダーのみじん切りであえてサラダにした。

夜は暖炉で薪を燃やした。木の燃えるいい匂いが部屋に広がる。部屋の空気が浄化されたような気持ちになる。
「私たちの家を建てるときには、暖炉で料理もできるようにしよう。火が燃えるときのエネルギーがもったいないから」
「そうだね。オーブンにしてピザも焼けるようにしよう」
「薪が燃える火でゆっくりとスープを煮込んだら美味しいのができるよね」
「そういえば、ここは、夏でもエアコンも扇風機もいらないほど涼しいよね。冬もそれほど寒くならないみたいだし・・・こういう気候のところで暮らすとエネルギーが少なくて済むね」
ゆっくりと燃えていく火を見ながら、いつか私たちの家を作る日のことを話し合った。
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# by lifewithmc | 2007-02-24 05:30 | メキシコ・山の暮らし

なかなか、会えない!

10月2日(月) 晴れ 

翌朝、ホテルで朝食を済ませ、公衆電話を見つけて、電話をかけた。「ハロー!」ポールが話している。やった、グロリアさんとつながった。午後2時にグロリアさんの家までタクシーで行くことになった。彼女は、今日は仕事があるので、その夜、私たちは彼女の家に泊まり、翌朝、現地まで車で連れて行ってくれることになった。がぜん、二人とも元気になる。「よかった、だまされたんじゃなかったね」

朝になってみると、ホテルの前の通りも夜ほど物騒な感じはなく、人通りも多いし、店も開いている。「15年前にザカロまで歩いて、何百人もの人の前でスピーチをしたんだよ」とポールが言う。「ソカロまで言ってみよう」歩いて広場まで行くと、カラフルに刺繍されたブラウスやシャツ、民芸品などを売るテントがずらりと並ぶ間に、スローガンを掲げたテントがいくつも並び、たくさんの人が座り込みをしていた。「ユリシスはオアハカから出て行け!」というスローガンがあちこちに掲げられ、政府のビルらしき建物はガラスがすべて割られ、落書きだらけになっている。ビラを配る人、署名や募金を集める人、あきらかに何かのデモをしている人たちがたくさん広場に集まっていた。広場は正方形で、北側に大聖堂が建ち、南側に州政府のビル、東側に銀行や郵便局、西側にはカフェが並んでいた。そのどの建物にもスローガンが掲げられ、スプレーで落書きされ、窓ガラスは割られ、何件かの店は閉まっていた。

「やっぱり、暴動が起きたんだな。でも、なんだか、平和な感じがするね。みんな座り込んで刺繍をしたり、おしゃべりをしたりしている」

たしかに、学園祭のような雰囲気だった。建物は壊され、広場に通じる道路はすべて封鎖され、荒れた感じがする一方で、広場に集まっている人たちは笑顔で、楽しそうなのだ。

「メキシコの歴史は、革命の歴史なんだよ。いつも政権を覆す人たちがいて、その人たちもやがて反対派に覆される」

カフェでコーヒーを飲みながら、ポールが説明してくれる。「暴動で壊されていなければ、ソカロはとても美しい場所なんだよ。日曜日の夜にはバンドが音楽を奏でて、みんなここで踊るんだ。市民のために立ち上がって革命を起こしている人たちが、市民の憩いの場所で、大事な観光収入の場所でもあるザカロをこんな風に壊してしまうのは、皮肉だよね。暴動のおかげで観光客も減っただろうし、観光客にお土産を売って生計を立てている人たちの収入も減っただろうしね」

たしかに、広場を見渡すと観光客らしき人はいない。私たちが座ってコーヒーを飲んでいるカフェも、他に2、3組のお客さんがいるだけだった。日本に住んでいたら、「革命」なんて歴史の教科書か小説でしかお目にかからない。それが、こうして目の前で起きていることが、とても信じられなかった。

なんだか、夢の中にいるみたいだ、と思いながら、ホテルに戻り、チェックアウトしてタクシーに乗った。いよいよ、グロリアさんに会いに行くのだ。タクシーの運転手さんに住所を見せる。グロリアさんの家は、オアハカ市の中心から6キロぐらい北の「サン・フェリペ・デル・アグア(San Felipe Del Agua)という街のプリバダ・ハリスコ(Privada Jalisco)106番地にあるはずだった。ところが、無線で住所の確認をしつつ、車を走らせていた運転手さんが、「プリバダ・ハリスコ(ハリスコ 私有地)という住所はサンフェリペにはないみたいだけど」と言う。「え?」「友達の家があるはずなんだけど」と私たち。「カイエ・ハリスコ(Calle Jalisco ハリスコ通り)という住所はあるから、とにかく行って、探してみましょう」と運転手さんが言ったその瞬間、とてもいやな予感がお腹のあたりをよぎった。

いやな予感は的中した。タクシーの運転手さんは、30分近くグロリアさんの家を探してくれたけれども、近所の人に何人聞いても、「その住所はない」と言われた。途中、道を尋ねた女性は、わざわざ携帯からグロリアさんの携帯に電話をしてくれたけれども、「電源が切られているか、電波の届かないところにいる」というメッセージが返ってくるだけだった。

「どうしよう・・・」「どうする?」

このまま、探し続けても無駄のようだ。ホテルを見つけたので、仕方なくそこで降りることにする。「もし、彼女に会えなかったら、ここに泊まろう」ポールは、荷物をフロントに運び、部屋を予約しようとする。「ちょっと待って、もう少し探してみようよ」私が言うと、彼は仕方なく、もう一度、探しに行き、20分ほどして戻ってきた。「やっぱり、こんな住所、このあたりにはないって」「ほんと?どうしよう?」「もう一度、携帯に電話してみるよ。それでも、彼女が出なかったら、今夜はここに泊まって、もう家を借りることはあきらめることにする。縁がなかったんだよ。ここまで来る意味はあったし、ほかに家を探せばいい。何かがうまくスムーズにいかないときには理由があるんだ。執着を捨てろということかもしれないしね。いいね?」

仕方なく、私は頷いた。たしかに、こんなに障害があるということは、別の道を行けということなのかもしれない。「これがもう最後のチャンス」と言って、ポールは電話をかけに行き、すぐに戻ってきた。

「つながった。15分後にここに迎えに来てくれるって」
「よかった!」ほっと胸をなでおろした。

しばらくすると、赤いフォルクスワーゲンがホテルの前に止まった。車から出てきた小柄な女性がグロリアさんだった。黒い髪、黒い瞳。コーヒー色の肌。「こんにちは!ようこそ」親しげに笑って、彼女は私たちと荷物を車に載せ、自宅に連れて行ってくれたのだった。

グロリアさんの自宅は、ホテルから5分ぐらいのところにあった。埃っぽいオアハカの中心地に比べると、緑の山が見え、近くに小川が流れていて、空気がきれいだ。大きなお屋敷ばかりが並んでいる裕福な地区のようだった。グロリアさんの家は、コンパウンドと呼ばれるタイプだった。塀で囲まれた土地に4軒の家がぐるりと庭を囲むようにして建っている。庭には大きな木があり、色とりどりの花が咲き乱れ、木陰に椅子とテーブルがあった。車を降りるときに、座席に何冊か本が積んであるのに気がついた。「中国の鍼灸の歴史」というタイトルの本が目に留まった。

「グロリアさん、鍼灸師なんですか?」
「そう。鍼灸とマッサージと漢方の処方と・・・いろいろやってるの。実は今も治療中なので、ちょっと待っててね」

私たちをリビングルームに案内すると、グロリアさんは椅子にかけてあった白衣を着て、奥にある部屋に入っていった。ダイニングルームはダイニングとキッチンがひとつになっている大きな部屋で、ヒーリング・ミュージックがかかっていた。壁には天使の絵がかかっていて、チェストの上にギターを抱えている男の人の写真が2枚、フレームに入って飾ってあった。男の人は鋭い眼差しをしていて、長い髪を一つにまとめ、こちらをじっと見ていた。もう一枚の写真は、マイクの前で目を閉じて歌を歌っている。

「旦那さんだ」と思った次の瞬間、不思議な感覚が胸をよぎった。「なんだか、亡くなった人みたいだなあ」と思ったのだ。けれども、それは失礼な思い過ごしだ、と、すぐにその考えを打ち消した。

治療が終わるとグロリアさんはハーブティーを入れてくれた。彼女の台所には、私の大好きなYOGIティー(アメリカで売っているハーブティーで漢方のような効果がある)や、オーガニックのオリーブオイルなどがあった。メキシコでもYOGIティーは手に入るのかと思い、聞いてみると、アメリカから友達が遊びに来るたびに買ってきてもらうのだと言う。残念!でも、ポールの好きなオリーブオイルやオリーブ、コーヒーなどはもちろんスーパーに行けば手に入る。翌朝、山の家に行く前に、スーパーに買出しに行くことになった。

「山の家は、一番近いお店まで歩いて30分。そこは、小さな雑貨屋さんみたいなもので、最低限の生活必需品はそこで買えると思うわ。でも、野菜や果物を買うには、そこからさらにコレクティボと呼ばれる乗り合いタクシーに乗って20分のエトラ(Etla)という町まで行かなくちゃならないの。エトラにもコーヒーやオリーブオイル、オリーブなんかは売ってないから、それは、オアハカ市内で買っていきましょう」

グロリアさんはこれから行く山の家の様子をいろいろ説明してくれた。オアハカ市内からは、車で1時間ぐらいかかるらしい。そこは彼女の家だったのだけれども、1年前に市内に引っ越さなければならなくなり、泣く泣く市内に家を見つけたのだと話してくれた。

「私と旦那さんは13年間、山の家で暮らしていたの。アメリカからメキシコに来てしばらくしてから、大自然の中に家を建てようと、山の中に素晴らしい土地を見つけて家を建てて住んでいたのよ。彼はギタリストで、いろんなジャンルの音楽を作詞・作曲して、アルバムをたくさん出している才能ある音楽家だった。だから、自然からものすごくたくさんインスピレーションをもらって、素晴らしい作品をいくつも生み出していたの。でも、5年前に彼が亡くなって、その後、4年間ひとりで住んでいたんだけれど、仕事のために市内に毎日通うのも限界になってね、仕方なく市内に引っ越したの。でも、旦那さんとの思い出がたくさんある大好きな場所だから、空き家にしておくのはいやで、誰か自然を愛する人に住んでもらいたいと思っていたのよ。だから、あなたたちが来てくれて、本当に嬉しいの。あなたたちは、自然の中で暮らしてきた人だから、行ったらきっとわかると思う。自然のスピリットがたくさんいて、素晴らしいエネルギーをもらえる場所なのよ」

それから、私たちは近くのレストランに行き、夕食を食べながら、いろいろなことを話した。グロリアさんは1988年からホリスティック・ヒーリングの仕事をすることになったのだけれど、それも不思議な偶然の一致に導かれてのことだった。

彼女はスペイン人の父とメキシコ人の母の間に生まれた。父は母に暴力をふるい、子供たちは夜中に近所の家に逃げ込まなければならなかった。彼女は精神的に不安定になり、身体も弱く、病気ばかりしていた。19歳のある日、彼女はとうとう耐え切れず、神に祈った。「神様、このまま辛い人生を送らなければいけないのなら、私の命を、たった今、奪ってください」すると、次の日、彼女は町で広告を見つけた。「無料でホリスティック・ヒーリングのレッスンをします」という広告だった。迷わずレッスンに応募した。自分の心と身体を癒すことが最初の目的だった。「そこから全てが始まっていったの」彼女は顔を輝かせた。

「私は本当にいい師匠に恵まれたわ。特に、『クォンタム・ヒーリング』」を書いたディーパック・チョプラ博士から直接学ぶことができたのは、本当に幸運だった。でも、一番驚いたのは、いろいろなヒーリングの技術を学んだあと、さて、どうやって働こうかと思っていたら、ある有名なヒーラーの女性が他の街へ引っ越すので、代わりのヒーラーを探しているということを知ったの。面接に行ったら、すぐに彼女は私を選んでくれたのよ。夢みたいな話でしょ?彼女は私にクライアントのリストをくれて、『あなたが私の代わりに治療をしますとみんなに伝えておいたから大丈夫よ』と言って他の街へ移って行ったの。そして、次の日から、私は、新米ヒーラーだというのに、何十人ものクライアントを抱えて忙しい毎日を送ることになったのよ!それが、1988年。まだ、29歳だった!」

「1988年?ポールがアイスランドで、これからは地球のためだけに働くと決めたのも、1988年だったよね」私は言った。1988年、グロリアさんはアメリカでプロのヒーラーとしての人生を始め、夫はアイスランドで環境活動家としての人生を始め、私はアメリカから日本へ戻って、最初の本を書き始めるきっかけとなる人と出会っていた。どういうわけか、同じ年に、地球のあちらとこちらで、それぞれの人生の行く先を決めた3人が、たった今、この瞬間に同じ場所で人生を振り返っていることが、とても不思議に思えた。
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# by lifewithmc | 2007-02-17 05:42 | メキシコ・山の暮らし

革命が起きている!?

10月1日(日) 晴れ 

「どうしてこんなことが起きているんだろう」ポールも私も首を傾げた。朝11時に、ツツラから長距離バスに乗って10時間半。夜9時半にオアハカのバスターミナルに着いた時、そこに迎えに来てくれているはずのグロリアさんの姿はなかった。

「メールで到着時間を知らせておいたんだけど・・・まさか、だまされたんじゃないよね?」とポール。
「まさか、そんな!」
片言のスペイン語でなんとかバスターミナルの売店でテレフォンカードを買い、公衆電話を見つけて、メールで受け取った彼女の携帯に電話をしてみた。何度かけても、スペイン語で「電源が切られているか、電波が届きません。おかけ直しください」というメッセージ。バスターミナルを何度もそれらしい女性を探して歩き回り、1時間待っても、グロリアさんらしき人は現れない。結局、「何か行き違いがあったんだろう」とあきらめて、タクシーに乗り、ガイドブックで探したホテルを目指した。

ホテルは、街の中心にあるゾカロ(Zocalo)と呼ばれる広場から歩いて3分くらいの場所にあるはずだった。ところが、タクシーが連れて行ってくれた場所は暗い路地裏で、なにやら物騒な気配がする。「ここで降りて」とタクシーのドライバーに言われた場所は、土嚢が積んであり、通行止めになっていた。

「この道は通れないから、ここで降りて。ここから歩いてすぐだから、ホテルはあそこ」タクシーのドライバーはスペイン語でそのようなことを言って、100メートルぐらい先の薄暗い場所を指差す。ドライバーが指差す方を見てみると、ホテルらしき建物も明かりも、全く見えず、時間は11時を過ぎていて、道は薄暗く、バックパックの他にスーツケースを引きながら物騒な場所を歩くのは、かなり危なそうだった。

「この道が通れないなら、ぐるりと回ってホテルの前に車をつけてよ。タクシーならそれが当たり前だろう」というようなことをポールが英語とスペイン語をミックスして言い始めると、ドライバーは「ここは危ないから、ホテルの前まで行きたくない」というようなことをスペイン語で言う。ポールは、15年前、メキシコやグァテマラを歩いていた間にかなりスペイン語を習得していたらしく、(思ったよりしゃべれる!と本人も驚いていた)「危ないなら、なおさら、客を降ろしちゃいけないだろう。歩くのはもっと危ない」とドライバーを説得し続ける。

すると、路肩を歩いていたカップルが「どうしたの?」と声をかけてくれた。ドライバーが「あちら側に行けるか?危なくないか?」というようなことを言うと、カップルの男性が「大丈夫。ぐるりと回れば、ホテルの前まで行ける」と言う。ようやくドライバーは納得して、車を発車し、ホテルの前につけてくれたのだった。しかし、ホテルの大きな木製のドアはぴしゃりと閉まっており、明かりも見えない。ホテルの壁は一面落書きだらけだ。「営業してるの?」と不安になる。ポールがタクシーのドライバーに「ホテルは閉まっているよ」というと、ドライバーは車から降りてきて、分厚い木製のドアを思い切り叩いてくれた。

数分後、分厚い木製のドアを開けてくれたのは、気の良さそうなおじさんだった。「今夜、部屋はありますか?」とつたないスペイン語で私が言うと、「あるある、どうぞ」と笑顔で言ってくれる。ドライバーはおじさんと何かを早口で話している。ほっとして荷物を車から降ろし、タクシーの運転手に料金を払って、カウンターに行くと、親切そうなおばさんがチェックインの手続きをしてくれた。

「この辺は危ないんですか?」ポールがスペイン語で尋ねると、「いいえ、今夜は静かな方よ。でもね、ほら、広場が近いから、扉に鍵をかけておかないと危ないの」という答えが返ってきた。

危ない?そんなに物騒な街なの?

私はにわかに不安になる。手続きを済ませて部屋に入ると、「バン!バン!」と拳銃を撃つような音が聞こえてきた。

「1週間ぐらい前に、オアハカで暴動が起きたというニュースが新聞に載っていたよね。きっとその影響だろう」とポールが言う。「15年前にここを歩いた時にもちょうど政権を覆そうという革命が起きていたんだ。変わってないな~」彼は驚いた様子もなく、テレビをつけてくつろぎ始めた。さすが、爆撃をくぐりぬけ、時には銃を突きつけられながらも、平和を祈る木を植えるために戦地を歩いた人だけのことはある・・・って、感心している場合ではない。私はそんなの慣れてないよ!

革命!?暴動!?

とにかく、明日の朝、起きたらもう一度、グロリアさんに電話をすることにして、眠ることにしたのだった。
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# by lifewithmc | 2007-02-17 05:39 | メキシコ・山の暮らし
ひょんなことからメキシコに住むことになった。1年前、イギリス人の彼と結婚し、彼の家族に会うために今年の8月、イギリスを訪ねた。そのとき、「2週間ぐらい歩こう」とバックパックを背負い、教会や納屋を見つけて野宿をしながら、「サウス・ダウンズ・ウェイ」というフットパスを歩いたのだけれど、どこを歩いているときだったか、突然、「半年ぐらい、どこか一ヶ所に住みたいなあ」と彼が言い出したのだった。

というのも、結婚してから1年間、一ヶ所に住んだのは最長1ヶ月。それ以外は、ずっと旅をしていた。彼(ポール・コールマン)の仕事は地球のために働くこと。彼は18年前にアイスランドの壮大な大自然に心を打たれ、「これからは地球のためだけに働く」と決心し、以来、バックパックを背負い、テントを持たず、野宿をしながら地球を歩き、木を植え、出会ったすべての人々に「地球の環境を守るために行動しよう」というメッセージを伝えてきた。1年半前、OLをやめてぶらぶらしていたとき、偶然、友人に誘われて彼の講演会に出かけた私は、彼の人生に感銘を受け、いくつもの偶然が重なって(今、思えばそれは全て必然だったんだろうけれど)、彼の人生を本に書いて出版することになり、彼と結婚し、バックパックを背負い、野宿をしながら、中国、韓国、日本を歩き、旅を続けてきた。

「メキシコに家を借りることにした」と聞いたときには少し驚いたけれども、たいていの人にとってはかなり突飛に思える彼の行動も、結婚して24時間365日一緒にいるうちに、「全ては彼の直感と経験と必然と宇宙の法則に従って起きている」とわかるようになった。だから、私の答えは、「OK」だった。なかには、「勇気があるね、すごいね」と言う人があるけれども、結婚して約4ヵ月後、マイナス15度の極寒の中国で、重たいバックパックを背負いながら、いつ終わるとも知れぬ、凍りついた山道を登り続けているときに、彼の後ろ姿を見て、「ああ、私は彼の船に乗ったんだ。私の船はもうないんだ。彼が船長で、私は乗組員なんだ」と突然、妙に納得したときから、「私は彼の船に乗り続ける」と堅く決心したのだった。

それほど、彼の船は大きく、魅力的だった。そして、私自身のエゴを捨てなければ、とても一緒に行けない旅でもあった。16年前に歩き始めた時、彼は一ヶ月分のお金しか持っていなかった。自分の貯金はすべてアマゾンの森を守るために使ってしまった。だから、歩き始めて1ヶ月たち、無一文になってからは、時には飢えながら、時には人々に助けられ、一歩一歩、歩いていくしかなかった。2年後、無事に第一回地球環境サミットの会場、リオ・デ・ジャネイロにたどり着き、大観衆の前で熱帯雨林を守ろうと講演をし、新聞やテレビで報道されて有名になったときにはすでに、彼のエゴは消え去っていた。たとえば、自分の名声のため、自分の利益のためだけだったなら、飢えながら歩くことはできなかっただろう。たとえば、ちらりとでも彼のエゴが見え隠れしたなら、人々が彼を助けることはなかっただろう。私がエゴを持ち続けていたら、彼と一緒に歩くことはできない。私は苦しみ続けただろうし、もし、私が自分の小さな船に乗り続けて、舵を取り続けることに執着したら、じきに私は置いていかれてしまっただろう。

メキシコは、16年前に彼がカナダからブラジルまで歩いたときに大歓迎を受けた国で、初めて木を植えた国でもあった。そして、食べ物や泊まる場所や木を植える場所、警察のエスコートなどを手配してくれ、彼を心から応援し、助けてくれた「メキシコの人々の温かい心」が、彼が今でも歩きながら人々と触れ合い、旅をし続けている理由でもある。今回、夫が「自然に囲まれていて、どこからも遠く離れていて、広いスペースがあって、精神的に落ち着いて創作活動ができる場所」という条件で、インターネットで世界中を探し、たどり着いた場所が、メキシコのオアハカ市(Oaxaca)だったのも不思議な縁だった。

オアハカは15年前に彼が歩き、大歓迎を受け、何本も木を植えた場所。いい思い出のたくさんある場所。心の温かい人々が住んでいる場所。「メキシコの人たちの笑顔が忘れられない。彼らの満面の笑みを見たら、誰でもハッピーになるよ」とポールは言う。

彼がインターネットで見つけた広告には、「26エーカー(約11ヘクタール)の土地にアボガド、ザクロ、ライムなどの果樹あり。広いキッチン、ダイニング・リビングルーム、巨大なベッドルーム」とあり、オーナーの女性が送ってくれた写真には、トロピカルな花が咲き乱れる庭と濃い緑の山に囲まれた敷地、サーモンピンクの壁に囲まれた巨大なメキシコスタイルのリビングルームが写っていた。

「26エーカーの土地にアボガドの木だって!巨大なベッドルームだって!ここに住もう!」

早速、ポールがオーナーの女性にメールを出すと、「私たちの素敵な家を借りてくれてありがとう。とにかく美しく自然が豊かな場所なので、木を愛する人に住んでもらえるのは、とても嬉しいです」という返事が返って来た。その後、一度イギリスから電話をし、数回メールのやりとりをしただけで、いつものように彼の直感を100%信じた私たちは(どんな時でも、何かを決断するときには、彼の直感ほど頼りになるものは、他になかった)、運を天に任せ、宇宙の導きにすべてを委ね、イギリスからメキシコへやって来たのだった。

イギリスのマンチェスターから飛行機で10時間。2006年9月20日、私たちは、メキシコのカンクン(Cancun)に到着した。カンクンを選んだのは、イギリスの旅の最後がマンチェスターで、たまたま、そこからカンクンへ直行便が飛んでいて、チケットが格安で取れたからだった。ところが、メキシコは広い。なんと、カンクンから目的地のオハカまで2000キロぐらいあるという。そこで、私たちは、10日間をかけてカンクンからオアハカまで旅をすることにし、カンクン、バヤドリド(Valladolid)、チチニツァ(Chichen Itza)のマヤ遺跡、メリダ(Merida)などを訪ね、彼が15年前に歩いてたくさんの人々と木を植えたサン・クリストバル・デ・ラス・カサス(San Cristobal De Las Casas)、ツツラ(Tuxtle)などを訪ねて、10月1日、オハカに到着したのだった。


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# by lifewithmc | 2007-02-17 05:31 | メキシコ・山の暮らし