エッセイスト菊池木乃実のブログです。環境活動家の夫、ポール・コールマンと共に南米チリのパタゴニア地方に在住。ホリスティックで持続可能なライフスタイル実践中


by lifewithmc
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

<   2007年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

命の使いどころ

d0107620_6491682.jpg
d0107620_6521778.jpg
今日は、夏至。日本では、一年のうちで一番長い日ですが、パタゴニアでは、その逆。一年で一番短い日です。このところ、日が短くなればなるほど、日中の行動時間が短くなり、夜、眠る時間が長くなっていった私。まるで、半分、冬眠しているかのように、自然とシンクロしていました。

でも、明日からは、日の出が早くなり、日の入りは遅くなり、どんどん、日が長くなっていくのです。やっほ~、すでに、春が来たような嬉しさです。

今週は、新しいストーブがやって来たので、燃やす薪の量も減り、古いストーブに比べて、数倍、暖かく過ごすことができています。豪快に燃える炎を見ながら、ふと、「ああ、こうやって木の命をもらって、暖をとっているんだわ」とセンチメンタルなことを思いつき、燃えていく薪の皆さんに、お礼の気持ちを伝えました。

そういえば、自然界の中では、すべての生き物の命は、他の命を生かすために存在しているけれど、人類は、何を生かすために存在しているのかしら。人類の命は、他の人類の命を生み出すことはできるけれど、他の自然の命を生かすために何か役に立っているのかな?

昔は、死んだ人を土に埋めたので、それで微生物が育って、植物になって、それを動物が食べて、動物を人間が食べるという循環があったけれども、今は、人間は死ぬと陶器の骨壷に入れられて、コンクリートで四方を囲まれた墓地に埋められるので、他の微生物が入る隙間もないし・・・私は赤ちゃんを産んだことがないし、多分、今回の人生では産むことはないだろうから、私の命は他の何を生かすためにあるのかしら?(そうそう、去年、ポールとイギリスに帰った時に、ポールの友達のお父さんが亡くなったので、一緒に木を植えて、お父さんの灰を木の周りにまいたことがあったけど、あれは、正しく、命を循環させているという気がして、すごく、すがすがしかった)

毎日、自然からいろんな命をもらって生きているわけだから、せめて、その恩返しとして、森や川や野生動物ができるだけ長く生き延びられるように、私の命を使いたいなあ。

そして、死んだときには、灰を土に埋めてもらって、その上に林檎の木を植えてもらいたい。林檎の木は大きく育って、鳥や他の動物や他の人たちの命の糧になるだろうから。
[PR]
by lifewithmc | 2007-06-22 06:53 | チリ・パタゴニアの暮らし
今日は、生き方のことについて書いてみたいと思います。
といっても、あくまで、これは私個人の経験から感じたことなので、「へえ、そんな考え方もあるんだ」という感じで読んでいただければと思います。

3年前、前世療法を受けたことがあります。東京の武蔵小金井にある「金のうさぎ セラピールーム」というところで、明るくチャーミングでめちゃめちゃ面白い「うさぎ先生」こと中野由紀子さんにセラピーを受けました。

その時におぼろげに見た私の前世は、若い男の子でした。いつの時代なのか、誰なのか、さっぱりわかりませんでしたが、衝撃的だったのは、彼(私)の人生を辿った後、「では、死の場面へ言ってください」と言われた時でした。私は、家の中にいて、落ちてくる屋根の下敷きになって死んで行きました。死ぬ瞬間は、苦しくはなく、ほっとした気持ちになったのを覚えています。

死んだ後は、真っ白な、とてつもなく明るい光の中へ行きました。そこで、白い光を放つ人たちに会い(人の形をしているのですが、はっきりと顔は見えませんでした)、ものすごい愛情に包まれて、私は号泣していました。そのときの私の人生は、後悔だらけでした。利己的で愛情が薄い人間だったため、人と深く関わるのが嫌いで、森の中に引きこもって暮らしていたのです。自分を育ててくれ、愛してくれた祖父に対しても、怒りと憎しみを持っており、そのときの人生では、祖父を許すことはできませんでした。

「どうして、もっと、人と関わり合わなかったのか。傷ついても、人を愛し、愛され、許し、許されて生きなかったのか」自分を責め、胸が焼け付くほど痛みました。すると、白い光のような人たちが、こう言いました。「いいんだよ。あなたは、そうして学ぶ必要があったんだ。みんな、わかっているよ。大丈夫だよ」あまりの優しい言葉に、また、私は号泣していました。意識の半分は、その場面にいて、あとの半分は、客観的に自分を観察しているので、「うわあ、ものすごい勢いで泣いているなあ。いやあ、胸が苦しいなあ」と思いながら・・・

そのあと、白い光の人たちから、温かいメッセージをたくさん、もらいました。
でも、私の人生を大きく変えたのは、その時に、気づいた一つのことでした。

それは、死んだ後に問われるのは、その時の人生でどのような業績をなして、どのような仕事をしたかではない。地位や収入は、一切、問われない。問われるのは、私にとって、それは、どんな人生だったか、心から幸せだったか、満足だったか、人を愛したり、人に愛されたり、人を許したり、許されたりしながら、愛情深く生きたかということなんだ。

また、人生で関わった人たちがどんな人生を送り、私がしたことによってどんな影響を受けたかということも、一切、問われない。なぜなら、私が人生で関わった人たちが、どんな人生を生きて、何を感じていたか、私がしたことによって、どんな感情を抱き、どんな行動を取ったかは、彼ら自身の選択であり、彼ら自身の責任ですることだからだ。人を傷つけたりしたとき、あるいは、誰かが、私は傷ついたと言ったとき、問われるのは、私は最良の方法で対応しただろうか、愛と優しい心でその人の傷を癒そうと努力しただろうか、ということであって、もし、最良の方法で最善を尽くしたなら、その人が傷つき続けても、それは、その人の選択であって、自分の責任の範囲ではない。そして、それら、すべてを厳しく問いかけるのは、神様でも、他の人たちでもなく、「自分自身なんだ」ということでした。

それは、とても、大きな衝撃でした。結局、死んだ後に、審判を下すのは、私自身であり、神様や天使や他の誰かが、「あなたの人生はよかった、あるいは、悪かった」と診断したりはしないのです。死んだ後の世界(魂の世界)にいる人たちは、ただ、ただ、私を受け入れ、愛し、許し、「大丈夫。それでいいんだよ」と言ってくれました。私が、激しく号泣しながら、自分がしてしまったことを後悔し、厳しく責め立て、苦しんでいる間、「過ちを犯すのは、悪いことではない。大切なのは、過ちを犯したことに気づいて後悔し、次の人生では、二度と同じ過ちを犯さないようにし、前の人生でした過ちを修正することなんだ。そうやって、より良い人間になっていけばいいんだよ」と言ってくれていました。

結局、自分がしたことをもう一度、客観的に見て、後悔し、苦しむのは、自分自身なのでした。それは、私たちには、良心というものがあるからであり、私たちの魂は、もともと、善の心、愛の心でできているからなのだと思います。自分の良心が、自分がしたことを振り返って、「なんということをしてきたんだろう」と苦しむのは、火で焼かれるような思いです。まさに、それは、自分自身で作った地獄の苦しみだと言えます。

その日、セラピールームのソファーで、前世から戻ってきた私は、こう決心していました。

「今回の人生では、死ぬときに苦しい思いをしないように生きよう。許せない人があれば、進んで許し、謝っていない人があれば、進んで謝り、感謝していない人があれば、今すぐ感謝しておこう。そうして、いつでも、最善を尽くし、澄み切った心でいるようにしておこう。そうしておけば、たとえ、他の人が怒り続けていたとしても、私を憎み続けていたとしても、私は気持ちよく死ぬことができる」

私たちは、いつ生まれるかということを知らずに生まれてきたように、いつ死ぬかということを知らずに今日を生きています。もしかしたら、今日、喧嘩をして、苦い思いを残したまま別れた恋人や友達や家族が、明日は、この世にいないかもしれないし、もしかしたら、私自身が、明日は、この世にいないかもしれません。

今日という日が、いつも最後の日なのです。
今という瞬間が、いつも最後の瞬間なのです。

ダライ・ラマ聖下が、テレビのインタビューでこう言っていました。
「スピリチュアルな人間になるために、特定の宗教を信じる必要はありません。スピリチュアルになるとは、昨日よりは今日、今日よりは明日、さらに良い人間になるということなのです」

神様のようなものは存在すると私は思います。でも、私の経験では、神様とは、「人間の形をしていて、人間を罰したり、許したりする」ような存在ではないようです。神様とは、私たちの心の中にある良心のような存在であり、善良な心、無条件ですべての命を愛する気持ちそのもののような気がします。だから、私にとって、神様は、「いる」というより、「在る」という感じです。空にも山にも川にも海にも森にも、あらゆるところにそれは在るように感じます。もちろん、都会にも、それは在りますが、都会や人間の多いところでは、その存在を感じることはとても難しいような気がします。太陽は輝いているのに、厚い雲の下では雨が降っていて、太陽の存在を感じることができないようなものです。

逆に、自然の中では、その存在をとても強く感じます。たった一人で荒野に立つと、巨大なその存在感に圧倒されます。広大な砂漠にたった一人で立つと、こんなにも太陽の光は強かったのかと畏敬の念に打たれるのと同じようなものです。

でも、私が、昨日よりも今日、良い人間になれるように生きている(=気持ちよく死ねるように生きている)のは、神様がそこに在るからではありません。私が、「今回の人生では、良い人間になって死ぬぞ」と決めたのは、もう二度と、同じことを繰り返したくはないからです。生きている間も、死んだ後も、自分を責め、罰するのは、自分自身だけです。生きている間、「私は十分ではない」と自分を責め、罰し続けるというのも苦しい人生ですが、死んだ後、人生を振り返り、「もう、取り返しがつかない!」と自責の念に胸を焼かれるのは、それ以上に苦しく、悲しい経験でした。

今では、「たとえ、どんな人生を生きたとしても、私たちは、その瞬間、その瞬間、精一杯生きている」のだ、ということもわかるようになりました。私たちは、誰でも、その瞬間、一番いいと思える方法で生きているのです。ですから、自分を責めたり、許せなかったり、あるいは、他人を責めたり、許せなかったりということがあっても、いいのです。その後で、気がついて、許したり、謝ったりすればいいのです。許したり、謝ったりするのは、早ければ、早いほどいいということは、おそらく、誰でも知っていると思います。苦い思いをするのは、短ければ、短いほうが気持ち良いですから・・・

私が、魂の世界で会った人たちは、みな、「いいんだよ。それで、いいんだよ」と言ってくれました。それが、神の心、愛の心なんじゃないか、と今では思います。私たちがどんな人生を生きたとしても、温かく見守ってくれ、許し、受け入れてくれる存在。それが、多分、「神様というようなもの」なんじゃないか。そして、私たちが、自分自身のことも、他の人のことも、温かく見守って、許し、受け入れることができるようになったときに、私たちは、「神様のようなもの」に限りなく近づいていくんじゃないか、とも思うのです。

だから、今は、地球を助けるために毎日を生きていることが、私にとっての幸せです。
死ぬときには、心から「いい人生だった。地球のために全力で仕事をして、満足な人生だった」と言えるからです。
[PR]
by lifewithmc | 2007-06-19 08:56 | チリ・パタゴニアの暮らし
ここ、フタルフは、ラフティングやカヤッキングをする人たちの間では、世界三大急流の一つとして有名なので、夏の間、(12月~3月)までは、世界中からラフティングやカヤッキングを楽しむ人たちがやってきます。また、フライフィッシングのスポットとしても有名なので、夏の間は、観光客でいっぱいになります。大家さんは、4軒のキャビンとレストランを経営しているのですが、もうすでに、今年の12月から3月まで、アメリカ人のフライフィッシング・グループの人たちからキャビン全てとレストランを貸し切りたいという予約が入っています。大家さんは、アメリカ人の人たちのリクエストに応えて、「川を見ながら入れるお風呂」を作る予定で、バスタブは木製。薪でお湯を沸かし、フライフィッシングを楽しんだ後には、レストランで食事をして、チリの赤ワインを飲みながら、お風呂に入る・・・というプランを計画しているそうです。(チリの赤ワインは、とても安くて美味しいです。日本で買うと720ml入りのボトルで3000円-4000円クラスの味の赤ワインが、ここでは、1リットル入りの紙パックに入っていて、400円くらいです)

実は、フタルフ川に、ダムを作ろうとしている企業があります。スペイン資本の企業で、もう、十年以上前から、フタルフ川にダムを作る計画を立てていますが、地元の人たちが反対し続けているおかげで、実現していません。地元の人たちは、今のままの自然を守りたいのです。ダムができてしまったら、川の流れが変わり、もう、「世界三大急流」ではなくなってしまうでしょう。美しい川を世界中の人たちが楽しんでくれて、地元も潤うという今の健康的な経済を変えたくはないし、「ダムができたら、儲かるのはスペインの企業で、地元の人たちの利益は損なわれるだけ」ということを、みんな、わかっているのです。

先週は、金の採掘会社がフタルフにやってきました。フタルフの山に、金鉱が眠っているらしいのです。採掘会社は、村長や地元の人たちを集めて、「金の採掘がどれだけ地元に利益をもたらすか」というプレゼンテーションをしましたが、村長さんは、即座に「NO」を言い渡しました。金の採掘が始まったら、山が壊されるだけでなく、金を精製するために使う化学薬品が川に流れてくるのは明らかです。「山に雪が降り、雪が解けたら、すべては川に流れ込み、川が汚染される」ということを、この村では、誰でも知っています。「川から水が飲める」数少ない企業な川を村の人たちは汚したくはないのです。「金の採掘が始まったら、地元の雇用が増えて、地域が潤うというのは、企業側の都合のいいプロパガンダで、実際に儲かるのは、金鉱会社だけ。自然は破壊され、汚染され、地元の人々の利益は損なわれるだけ」ということも、みんな、知っています。

先週、水道が凍っていた間、毎日、川へ水を汲みに行っていました。毎朝、川岸へ座って、太陽の光や、川の流れを眺めながら、バケツに川の水を汲んでいると、心がしんと静まって、たとえようもない喜びが心の奥から湧いてくるのを感じました。

自然の中にいると、時々、「たとえようのない喜びに包まれる」ことがあります。あとから考えてみると、その瞬間は、私自身の境界線がなくなって周りの自然に溶け込んでいるようです。その瞬間、私の意識から「私の存在」は消えています。自分自身の境界線がなくなった瞬間、私は、小さな小さな微粒子になって、周りに溶け込み、私は消えてしまうのです。そして、たとえようもない開放感に包まれます。時が止まり、そこには、無限の自由が広がって、どこまでも飛んでいけるくらい身軽に感じ、何か大いなるものとつながっていると感じます。水を汲んでいたあの瞬間、私は川とつながっていたのかもしれません。

私たちが、みな、「人類は地球とつながっているのだ」と、わかる時が来れば・・・
「地球を汚すことは、自分を汚すことと同じなのだ」と、わかる時が来れば・・・
地球は浄化され、私たちも浄化されるでしょう。
その時は、近づいていると思います。

川から汲できた水を沸かして、お茶を飲み、スープを作り、水道から水が出なくても、4日間、過ごせたのは、川の水が汚染されていないからこそ。フタルフの人たちが、頑固に自然を守っていることに、勇気付けられ、心からありがたいと思いました。

自然と溶けてひとつになる

ここ、フタルフは、ラフティングやカヤッキングをする人たちの間では、世界三大急流の一つとして有名なので、夏の間、(12月~3月)までは、世界中からラフティングやカヤッキングを楽しむ人たちがやってきます。また、フライフィッシングのスポットとしても有名なので、夏の間は、観光客でいっぱいになります。大家さんは、4軒のキャビンとレストランを経営しているのですが、もうすでに、今年の12月から3月まで、アメリカ人のフライフィッシング・グループの人たちからキャビン全てとレストランを貸し切りたいという予約が入っています。大家さんは、アメリカ人の人たちのリクエストに応えて、「川を見ながら入れるお風呂」を作る予定で、バスタブは木製。薪でお湯を沸かし、フライフィッシングを楽しんだ後には、レストランで食事をして、チリの赤ワインを飲みながら、お風呂に入る・・・というプランを計画しているそうです。(チリの赤ワインは、とても安くて美味しいです。日本で買うと720ml入りのボトルで3000円-4000円クラスの味の赤ワインが、ここでは、1リットル入りの紙パックに入っていて、400円くらいです)

実は、フタルフ川に、ダムを作ろうとしている企業があります。スペイン資本の企業で、もう、十年以上前から、フタルフ川にダムを作る計画を立てていますが、地元の人たちが反対し続けているおかげで、実現していません。地元の人たちは、今のままの自然を守りたいのです。ダムができてしまったら、川の流れが変わり、もう、「世界三大急流」ではなくなってしまうでしょう。美しい川を世界中の人たちが楽しんでくれて、地元も潤うという今の健康的な経済を変えたくはないし、「ダムができたら、儲かるのはスペインの企業で、地元の人たちの利益は損なわれるだけ」ということを、みんな、わかっているのです。

先週は、金の採掘会社がフタルフにやってきました。フタルフの山に、金鉱が眠っているらしいのです。採掘会社は、村長や地元の人たちを集めて、「金の採掘がどれだけ地元に利益をもたらすか」というプレゼンテーションをしましたが、村長さんは、即座に「NO」を言い渡しました。金の採掘が始まったら、山が壊されるだけでなく、金を精製するために使う化学薬品が川に流れてくるのは明らかです。「山に雪が降り、雪が解けたら、すべては川に流れ込み、川が汚染される」ということを、この村では、誰でも知っています。「川から水が飲める」数少ない企業な川を村の人たちは汚したくはないのです。「金の採掘が始まったら、地元の雇用が増えて、地域が潤うというのは、企業側の都合のいいプロパガンダで、実際に儲かるのは、金鉱会社だけ。自然は破壊され、汚染され、地元の人々の利益は損なわれるだけ」ということも、みんな、知っています。

先週、水道が凍っていた間、毎日、川へ水を汲みに行っていました。毎朝、川岸へ座って、太陽の光や、川の流れを眺めながら、バケツに川の水を汲んでいると、心がしんと静まって、たとえようもない喜びが心の奥から湧いてくるのを感じました。

自然の中にいると、時々、「たとえようのない喜びに包まれる」ことがあります。あとから考えてみると、その瞬間は、私自身の境界線がなくなって周りの自然に溶け込んでいるようです。その瞬間、私の意識から「私の存在」は消えています。自分自身の境界線がなくなった瞬間、私は、小さな小さな微粒子になって、周りに溶け込み、私は消えてしまうのです。そして、たとえようもない開放感に包まれます。時が止まり、そこには、無限の自由が広がって、どこまでも飛んでいけるくらい身軽に感じ、何か大いなるものとつながっていると感じます。水を汲んでいたあの瞬間、私は川とつながっていたのかもしれません。

私たちが、みな、「人類は地球とつながっているのだ」と、わかる時が来れば・・・
「地球を汚すことは、自分を汚すことと同じなのだ」と、わかる時が来れば・・・
地球は浄化され、私たちも浄化されるでしょう。
その時は、近づいていると思います。

川から汲できた水を沸かして、お茶を飲み、スープを作り、水道から水が出なくても、4日間、過ごせたのは、川の水が汚染されていないからこそ。フタルフの人たちが、頑固に自然を守っていることに、勇気付けられ、心からありがたいと思いました。
[PR]
by lifewithmc | 2007-06-06 05:56 | チリ・パタゴニアの暮らし
d0107620_1083779.jpg

(私たちのキャビンから見た朝の風景)

一昨日、いったい、何があったのでしょう?
このブログのアクセス数が、突然、89人に増えていて、びっくりしました。
このブログは、あまり告知していないので、いつもは、1日8~9人の方が読んでくださるだけの、とってもLow Keyなブログなのですが・・・

ところで、凍っていた水道と、凍っていたガスは復活しました。
先週は、寒波が襲ったらしく、朝起きると、部屋の中が2度!
外は、マイナス5度という寒さでしたが、今日は、なんと、朝の部屋の温度が8度!
「おお~、あったかい~♪」と喜びました。

私たちが借りているのは、夏用のキャビンなので、木陰に作られており、しかも、怒涛のように流れる大きな川のすぐそばなので、川から冷たい風が吹き、冬はとっても寒いのです。大家さんは、とっても親切で、夏は、一泊100USドルもするこのキャビンを、一ヶ月200USドルで貸してくれました。(夏は、涼しく、川の眺めも美しく、ここは、素晴らしいキャビンなのです。念のため・・・)しかし、薪ストーブは、30年前のものなんじゃないか、っていうくらい、レトロ。とても、熱効率が悪いので、薪をたくさん燃やさなければならず、ずっと、心を痛めていました。

できれば、薪を燃やしたくはないのです。だって、あちこち、歩きながら木を植えているわけですから。。。私たち。。。

その心の願いが通じたのか、今日、大家さんが来て、「来週、新しいストーブを入れてあげるから」と言ってくれました。ヤッホー!

昨日、テレビで「熱効率がぐーんとアップした新しい薪ストーブ、発売中!」というホームセンターのCMを見たばかりだったので、これは、嬉しいニュースでした。
[PR]
by lifewithmc | 2007-06-03 10:03 | チリ・パタゴニアの暮らし